悪化しているような肩
痛い。
先日、長年の指輪を外し(きつくなっていたのでカットしてもらった)てから、五十肩がより痛く感じるのは偶然なのだろうか。
『本のエンドロール』(安藤祐介著 講談社)を読了。
図書館で借りた本で単行本。4月に文庫本が出ていたことは、読み終わって他の人の感想を検索していた知った。
おもしろかった。前知識なしに読んだのだが、ノンフィクションかと思っていたのが、フィクションだった。ぐいぐいひっぱられた。こういう読書はいい。学生のときは、周りの音が聞こえないくらいに集中して読む読書がいい気分転換になったけれど、なかなかそういう本と出会えなくなっていた。
印刷会社を舞台に、本の周辺の人たちの話。編集の仕事は想像できていたけれど、印刷まわりは新鮮だった。
印刷会社で働いている、男性が印象に残っている。妻の弟が病気を患い、その面倒を金銭的にみている。だから日々の生活は常に切迫している。まとまったお金が出ていくのが本当に生活を苦しくさせ、彼に余裕をなくしている。そのしんどさのリアルさがしみた。お金がないのは苦しい。余裕がどんどんなくなる。
その弟が亡くなったとき、妻の気持ちに寄り添うよりも、まとまったお金が出ていかなくなることに安堵する気持ちがわかるような気がした。妻にはしんどいことだろう。
人の気持ちというのは、理想的には動かない。
そうありたいと思っていても、動く心は止められない。
怒りをしずめる、嫌いな相手に冷静な対応をとるなど、頭で行動を制御できる時もあるけれど、気持ちはなかなかコントロールできないのだ。
本の話とは別に、そこが強く残った。
27年ぶりに外した指輪のあとがずっと残っていて、無意識にさわってないことに驚く。そしてああ外したんだと思い出す。
一進一退の肩よ
少しずつよくなっているような気がする肩。
痛いは痛いのだけど、可動域が広がっているような気がする。
お風呂で動かしているのだけど、いままでできなかった動きが少しできるようになってきている。気がするだけなのか、どうなのか。
今年中によくなるといいな。
『エルサレム』(ゴンサロ・M・タヴァレス 木下眞穂訳 河出書房新社)読了。
重たそうな内容だったので、まさかの一気読みするとは思わなかった。
でも、読み始めたらすごい吸引力。ページターナー度高いのに驚く。
各章それぞれ人名がおかれ、そこに書かれた人たちが動いている。
最初に登場するミリアはもうすぐ40歳。病気になり、痛みに苦しんでいる。
「病気になるということは、痛みにどれだけ耐えられるかの実験を受けているようなもの」というミリア。
書かれている言葉がどれも小説ならではの力がこめられ、その力に引っ張られる。
ミリアと離婚した夫、テオドールは精神科医。ミリアは患者だった。
医者として診ていた患者なのだから、ミリアがどういう状態にあるか知っていたであろうに、ふたりはうまくいかなくなり、ミリアは精神病院に入院する。
ミリアは統合失調症と診断されていた。
入院した先で出会ったエルンストも同じ病名だ。
ふたりが入院している病院で、子どもができ、ミリアはまだテオドールの妻だったため、生まれた子どもはテオドールが引き取ることになった。
カースはテオドールと一緒に暮らしていたが、足が悪く、うまく話をすることが難しかった。
病院を退院できたミリアはカースと会いたがるが、カースはミリアに感情をもたない。
人間関係はどんどんと深掘りされていき、ミリア、カース、テオドール、エルンスト、そして銃をもつヒンネルク。
テオドールは医者のかたわら、歴史に残る虐殺事件を研究しており、ようやく発表し話題になるも、それは一瞬で終わってしまう。そのジェットコースターのようないいときとわるいときのギャップの描き方が読ませる。
何年もの間、テオドールは強制収容所や流刑場で人にもたらされた恐怖について研究し、それをグラフ化したいと思っていた。戦争は除外する。なぜなら、軍隊同士の戦いはどちらにも力がある。強制収容所は違う。一方的に弱者を破壊する。その恐怖をとことん研究していた。
彼らはどうなっていくのか気になって一気に読んだ。
その描き方がすばらしかった。
読み終わっても、彼らは私のまわりに残っている。
ミリアやエルンストが倖せになる道はあったのか。
テオドールは精神科医として夫としてミリアと共に幸福を紡げなかったのか。
「エルサレムよ、もしも、わたしがあなたを忘れるなら、わたしの右手はなえるがよい」旧約聖書の詩篇の一節
思いは言葉に
肩は相変わらず痛いのだが、
勘違いかもしれないけれど、少しずつよくなっているような気もしているのだ。
思いは言葉にっていい言葉。
はてなブログの横に書いてあった。
『泡』読了。
松家さんの文章は本当に整っていてきれいで、それでいてきれいすぎず、雑味というか、うまく外しているところもあって力まず読める。
不登校の高校生が出てくるのだけど、YAではない。しかし、アメリカのYAを大人が読んでも楽しめるアレックス賞(めちゃくちゃ適当な要約)を受賞しそうな作品。
食べ物をつくるセンスがあるのは人生を楽しめる要素がたっぷりある。
喫茶店の仕事の奥深さも感じた。いい小説。
今日は湿原の木道を歩いてきたのだけれど、木道がすごく好きなので、次は尾瀬に行きたい。
漆の旅に出たり、湿原を歩いたり、仏像を見に行ったり、小さな旅が続いていて、精神がとても健康。
肩が痛いくらいなんなんだと思うけれど、歩いたせいか肩がずっしり重い。
相変わらず痛い
まったくもって痛い。
いや、正直にいうと、ピークはすぎているような気はする。
先週の金曜日に仕事で高いところにものをとりつけるために、かなり肩に負担をかけてしまって痛みのない右肩が筋肉痛になったほどで、それが原因なような気がする。
肩の可動域が狭いので、早く元に戻りたい。
いつかは戻るはず。
『過ぎにし夏、マーズ・ヒルで』エリザベス・ハンド著市田泉訳(創元海外SF叢書)を読む。「本の雑誌」6月号で大森望氏が絶賛し、5月29日付の毎日新聞でも、若島正氏がとりあげていた。「エコー」は別の翻訳者で既訳済であえてふれられていなかったが、私は初読だったので、この「エコー」がよかった。SFというだけで、苦手かもとかまえてしまうが、あまりSFっぽくないつくりなので読めたかも。
「新潮」5月号に掲載されていた、佐久間文子「ツボちゃんの話ーー夫・坪内祐三」を読む。実は坪内氏のものをあまり読んだことはない。すごい人(語彙貧弱)だというのは、「本の雑誌」でもとりあげられているので知っているが、実感はしていなかった。けれど、書籍になり、読んでみたいなと思ったときに、この雑誌をたまたま手にとり一気読みした。おもしろい。25年間の結婚生活のはじまりから急逝まで、何かで記録をとっていたかのような情報量がつめこまれている。文章の温度感もよく、書籍で読んでみたい。
今日も痛い 考え続けていること
肩が痛い。重いものをもつととても痛い。それでも重いものを持たされる。
引きが強いんだか、いつも同じようなことがめぐってくる。
今回は断ち切れるか。
断ち切るためにできることはなんだろう。
考え続けていること。
ある児童書を読んだ。貧困もので、数十年ぶりの作品を書いた作家は伝説の作家といわれているらしく、注目された作品になったらしい。
DVで離婚してシングルマザーが2人の子どもを育てているが、パートでお給料も少ないため、子どもたちはいつもおなかをすかせている。章タイトルが食べ物で、どれもおいしそうなのだが、つくっているのは、小学5年生の女の子。キャベツ料理がうまい。小学2年の弟に少しでも楽しく過ごしてもらおうと日々心をくだいている。
母親は、あえて生活保護の申請をしていない。申請もなかなか通りにくいと自身の母親にいいながら、あなたのようにはならないと言っているのを娘が聞いている。
児童文学だけれど、このきょうだいを救ってくれる大人は登場しない。いや、ひとり。シングルファーザーの大人だ。正社員で働いているので、少しは余裕があると、きょうだいに目をかけてくれている。
社会にお世話になって学生時代を過ごしたけれど、その時に欲しかった、読みたかった話はこれじゃないな。共感できるところなどなく、母親は親を放棄しているとすら思えた。意地も大事だが、子どもの空腹を満たしてほしい。一時的にせよ、社会のお世話になることのほうが子どものためになる。
貧困ものはスケッチ文学になってほしくない。
世の中は複雑なのだから、その複雑さを重層的に描いて、子どもに教えてほしい。世の中を。救ってくれる方法を。手をさしのべてもらえる術を。
文学は実用書でもあるはずなのに、貧困ものを美化しないでほしい。
空腹なんてちっともいいものじゃないし、そうならないためにどう生きていけばいいのか教えてほしかったよ、ずっと。
生きづらくない道をみせてほしいよ。児童文学にはさ。
今日も痛い
前のブログを書いたのが3月。
肩が痛みはじめたのは確か去年の秋くらい。
5月も後半になるいま、まだ痛い。はぁ。つらい。
セブンスピローを購入した。
マットレスもあわせて購入したのだけれど、これがとても心地よい。
よい値段したけれど、こういう買い物はいい買い物だと思う。
けれど、だからといって劇的に肩の痛みがとれるわけではない。
でも、痛みが進行していることはないと思う。ありがたや。
夜ごはんは、野菜雑炊をつくった。
大根、にんじん、まいたけ、葉玉ねぎの葉(歯って変換されてて怖っ!)、榎茸を出汁で煮て、ぬめりをとった炊き立てのごはんをいれてくつくつ煮る。卵も入れる。こしょうをぱらりとかける。
今日は肌寒い一日だったので、あたたかくてよかった。
五十肩もちなのだから健康にも気をつけなくてはいけない。
野菜をとるんだ。